しおんのおと

夜紫遠の書き散らしコーナー

コタツと猫「たち」の話

実家に寄ったらコタツが出ていた。

もうそんな季節か、と思いかけたが、そういえばこの家は夏以外コタツを出し続けている。

今年11才になる猫のせいだ。

ブリティッシュショートヘアという品種のオスである。グレーの被毛に、ふくろうのような金色の目。グレーの猫というとロシアンブルーのような高貴な姿をイメージする方が多いかもしれないが、ブリティッシュショートヘアというやつはどうにもぽてぽてする傾向にある。表情も心なしか常にきょとん顔だ。そんなところがまた可愛い。

ぷっくりしているので名前は「ぷっく」である。母による命名なのだが、本人はそのことを都合よく忘れており、「私はアルバートとか格好いい名前にしたかったのに」と他責的態度である。

ぷっくはコタツを猫専用のテントだと考えている節がある。姿が見えないと思うと大抵そこにいる。人間がコタツに電源を入れると、やや間を置いて、あからさまに迷惑そうな顔をして頭を振りながらぬるりと出てくる。「ヴァアァアアオオオン」と不満げに長く鳴く。したがって真冬でも我が家のコタツに電源が入れられることはほぼ無い。

 

ところで、ご存知の方も多いが、私は極度の猫狂いである。猫を前にすると声が1オクターブ上がり、マセガキであった本物の幼児の頃には決して使わなかったような幼児語で猫相手に支離滅裂な愛を浴びせ続ける別人格が顔を出してしまう。

「アラ〜〜〜〜カワイイカワイイデシュネエ〜〜〜♡♡♡どこのネコチャンですか?エッ?ウチノコ!?ソウナノ〜〜〜!?ビックリ〜〜〜♡♡♡このポンポンマズルはなぁ〜に?まあるいキャンディが詰まってるの?おひさまのおあじなの?ソウナノ〜〜〜カワイイイノチダネエ〜〜〜♡♡♡」

この間、ぷっくはニャアとも鳴かずにただきょとん顔で私を見つめている。父母はもはやツッコみもしない。

この態度でありながら、実家にいた頃、家族で最も猫に懐かれていたのは明らかに私であった。父母は口を揃えて「理不尽だ」と言っていたが、洞察が甘い。猫に対して、私は単に一方的な愛情を押し付けるだけの馬鹿に成り下がっているわけではない。その裏で不断の努力によって愛猫の信頼を勝ち得ているのであるから、嫉妬される筋合いはないのだ。

努力のコツは至ってシンプル、「相手の目線に立つ」ことである。友好を深める極意は、対人関係であろうと対猫であろうと共通なのである。

すなわち、猫が窓辺で寝転んでいれば匍匐前進でにじり寄り(?)、猫同士がするように鼻をくっつけて「ぷーたん♡♡♡おとなりいいでしゅか?」と挨拶をし(?)、それから隣に香箱座りをして小一時間日向ぼっこをする(??)。

いや、対人関係でこんなことしてたら不審者ですね。すみません。だが、対猫関係ならこれが正解。文字どおり猫と同じ目線で景色を見るのである。

そうすれば、アンモニャイトがくっつき合うようにごく自然に背中に触れることができるし、兄弟猫が毛繕いするように優しく手を動かせば撫でてやることができるし、あわよくば猫吸いもできる。猫素(ニャンソ)は人体の必須栄養素であるので、補給の機会は逃さないことが肝要だ。

のみならず、「(あ、このソファーカバーのフリンジ、ここから見るとじゃれつきたくなるから買い替えたほうがいいな)」とかいうのもわかるし、実際猫がソファーで爪とぎをして母に怒られると「しょうがないよ、じゃれつきたくなるような物を買ってきた人間が悪い」と庇って「(こいつ話がわかる奴だニャン)」という目で見てもらえたりもするのである。話がわかる奴というか、要は多分猫仲間として認識されるようになるようになるだけなのだが、それも本望である。

 

さて、久しぶりに実家に帰ったというのに、ぷっくがコタツから暫く出てきそうもない。こんな時、「相手の目線に立つ」が発動されると、何が起こるかといえば、私は躊躇なくコタツに頭を突っ込む。なんだよ!そんな目で見ないでくれよ!!だって寂しいじゃないか!!!会いたいじゃないかネコチャンに!!!!

タツの中は、焦げた埃がこもっていて当然のごとく非常に臭い。猫は鼻が利く動物だと耳にしたことがあるが、聞き間違いだろうか?

暗闇の中でぷっくの目がきらりと光る。暫く出てこないからといって寝ているわけではないのだ。単にぷっくにとってはこの臭いコタツが巨大なコージーコーナーなのである。信じられないことだが。

ぷっくに「なわばりにおじゃましましゅよ」の鼻チューをして、辺りを見回す。すこぶる臭いということを除けば、確かに居心地が良いのかもしれない。猫は薄暗くて狭い場所を好む習性をもつ。コタツの中は、閉鎖空間でありながら身体を伸ばすに足るスペースが確保されており、体感的にはほどよい狭さなのかもしれない。

そして、電源が入らない限りは春でも冬でもほぼ一定温度で、仄かに暖かい。これをテントと見なしているのなら、電源が入ったら確かにさぞ迷惑だろう。「茶トラ模様になってまうやないかい」と文句の一つも言いたくなるだろう。

 

母はコタツからはみ出ている私の脚を乱暴に踏んづけていった。およそ人間の娘に対する所業ではないが、私のしていることがおよそ人間らしくないので、仕方がないかもしれない。

「猫産んじゃった、猫産んじゃった、猫産んじゃったら失敗だ♪」

と歌う声がコタツ布団ごしに聞こえてきた。

失敗作呼ばわりされるのには飽き飽きしているが、このパターンは久々に笑えた。視野狭窄にして癇癪持ちにして我田引水、およそ人の親たる器ではない我が母ではあるが、こういう時折妙に当意即妙なところはそれほど嫌いではない。

 

 

今世でも半分猫化しているそんな私だが、もし生まれ変わることができるのなら、来世では絶対に本物の猫になりたい。

猫になれるとしたら模様は白黒ハチワレな気がしている。別に今世の髪型が八割れであるというわけではない。なんとなくそんな予感がするだけである。ハチワレ角(?)は狭めで、両目は黒毛ゾーンにすっぽり隠れると思う。口の周りの白毛ゾーンがにんにくみたいな形に見えるやつだ。

あるいは、徳が足りれば、模様を自分で選ぶこともできるかもしれない。選べるとしてもハチワレが良い。足は白ソックス模様にしよう。その場合は3本だけソックスを履いて、1本だけ脱げているような模様にしようと思うので、みなさま目印にしてほしい。飼ってくれそうなフォロワーさんの目の前に飛び出して元気よく媚び鳴きするつもりだ。

ハチワレの猫に生まれ変わりたい旨を主張しすぎたせいで、母には数年前から「ハッチ」と呼ばれている。実名にはかすりもしていない。某バスケ選手が活躍し始めた頃からは時々「ハチムラさん」になることがある。運動音痴が運動選手と同じ名前で呼ばれるのは何かこう、非常にムズムズする。全国の運動音痴のオオタニさん達もこんな思いをしているのだろうか。

 

亡父は私に輪をかけて猫っぽい人だった。大きくて眠たそうな目といい、どこか悠々とした構えといい、気まぐれで神出鬼没なところといい、醸し出す雰囲気が猫なのである。

極めつけは部屋着の色だ。無印良品を好んでいた父は、家ではいつも代わり映えのしないグレーのスウェットを着ていた。コタツでゴロゴロしているグレーの父の横にグレーのぷっくがぽてぽてとやってきてドデンと寝転んだりしようものなら、絵面は完全に男子シンクロニャイズド睡眠グである。

父のことを「ボス猫さん」と呼んで憚らず、「この家に人間は私しかいない」とよくこぼしていた母だが、「パパのことは初めて会った時から猫みたいな人だなと思った」と供述している。好きでグレーのボス猫と結婚してハチワレの猫の卵を産み、さらにグレーの舎弟猫まで迎えたというわけだ。文句をつける資格はあるまい。

 

呼び名、呼び名ね。そう、母は人の呼び方がどうもおかしい。ハッチ呼ばわりされるようになる前も、家の中では実名を呼ばれていた記憶があまりない。母は感覚的かつ理不尽な渾名をその時々の気分に応じてファッション感覚でつけ替える人である。最も頻度が高かったのは「ピヨチヨさん」だった。伝説のスタフィーというゲームに出てくるピヨチヨというモンスターに私が似ているからだと言っていた。はっきり言おう、大して似ていない。単に語感がお気に召しただけだろう。

「ペペンキュー」「マメムーチョ」のような完全に由来不明のものも多々あった。おそらくあの人は私のことを娘とかではなくペットか何かと見なしている。ああ、そうでした、猫なんでしたね。あれ、でもピヨなら鳥か。ペペンはペンギン?ならやはり鳥なのか?? もうなんでもいいや。

 

亡父も亡父で、別の意味であまり実名を呼んでくれなかった。というより、総じて人の名前をあまり呼ばない人だった。「おい」とか「ちょっと」で呼び止めちゃうタイプ。よくいると言えばよくいる。

駄洒落が好きな人だったので、単発の渾名をつけられることはままあった。幼稚園生の頃にインフルエンザで倒れれば「インフル園児」、大学生の頃に花粉症を発症して洟をすすっていれば「洟の女子大生」という具合だ。しょうもなさすぎて一周回って好きだが、言ってから自分で笑ってしまうところは残念極まりない。

こんな両親に育てられたので、私は実名を呼んでくれる人が好きだ。「紫遠」も第二の実名として末永く使いたくて一生懸命考えた名前なので、紫遠呼びも勿論嬉しいが、第一の実名で呼ばれることにも慢性的に飢えているので、ご存知の方は時折呼んでくだされば喜ぶ。

 

そういえば、一度だけ亡父にハッチと呼ばれていた(?)ことがあった。面と向かってではない。亡父のパソコンを触っていて偶然知ったことだ。

まず、遺品整理の過程でパソコンのパスワードが書かれた紙を発見したのだが、それは暗号で書かれており、その解読のヒントはなんと生前私と父とが交わした会話の中にあった(こんなこと現実に起こるんだ!)!

というわけで、亡父がこうなることをどこまで予期していたかはわからないが、私が貰い受けて良かろうという結論になった。

自分のものとして使い始める前に、データは極力覗き見ることなく消去しようとしていたが、一つだけどうしても気になってしまうフォルダがあった。「デカいネコ」と題されたフォルダである。

「(……デカいネコ?ぷっくのことか?)」

そこから先は以前ツイートしてバズったとおりである。誘惑に負けてフォルダを開くと、なんと、そこには私の写真しか入っていなかったのである。これには盛大に笑い泣きした。なお、笑い泣きとは、笑いすぎて涙が出る現象のことであって、感情としては笑い100%である。

デカいネコだと思われていたwww 父にさえもwwwww

 

その中に、職場の採用パンフレットに縁あって抜擢された時の写真があった。短いインタビュー記事の横に、OLのコスプレをしたデカいネコ。猫らしからぬ美辞麗句を連ねて誇りと夢を語っている。

その写真のキャプションにこう記されていた。

「ハッチ、ハッチメンロッピ(八面六臂)の大活躍。」

 

これにはちょこっとだけ泣き笑いした。泣き笑いとは、泣きながら笑う現象をさす言葉であって、感情としては涙と笑いとが複雑な割合で入り混じったものである。笑い泣きと泣き笑いって別物なんですよ。これマメな(?)。

 

全くダジャレストらしいというか、しかし、そういうのは直接言ってくれないかなー!もー!貴重な照れ笑いするデカいネコが見られるチャンスをふいにしたぞー!!!←

まあ、後半、私は父のオヤジギャグにまあまあの割合でチベットスナギツネのような目を向けてしまっていたので、これが日の目を見なかったのも私のせいかもしれない。大変惜しいことをした。ギャガー諸君よ、私は学んだ。ギャグとは口に出してなんぼだ。思いついたら全て口に出してみろください。スベらせないから(怒らないから言ってみなさいみたいになっちゃった。意味が逆←)

 

八面六臂のハチワレキャット。語感コレクターにとっちゃドツボである。来世で二つ名にしよう。サンキュートーチャン。

 

 

若干しめっぽい空気にしかけてしまったが、本意ではない。総じてうちの家族の(主に存命組の)各々どこか頭のおかしいところが少しでも面白可笑しく伝わっていれば満足である。

ある意味ぷっくが一番まともかもしれない。いや、前言撤回。あんなに臭いコタツの中に好んで棲み着いているのだ。奴とて到底まともではあるまい。

カジウラー以前の音楽の話

前回の記事を受け、予想外に多くの方から語感コレクションをお寄せいただいた。

“ひとりじゃないと初めて知った、瞳を開いた♪”(Kalafina/むすんでひらく)

有難うございました。

 

記事を書いていて思い出したのだが、「ゼッタイギオンカン」という狂ったカードゲームが我が家にある。

「ゴッ」とか「ォォォ」とかいう擬音の欠片が漫画調で書かれたカードが手札として配られ、プレイヤーが順番に手札を場に出すことにより、世界に一つだけの擬音が完成する。

「カプペォォォ」とか「ゴッサゴッサ」といった具合である。

出来上がった擬音を見て、「これはどういう状況を表す擬音か」という解釈をプレイヤーひとりひとりが考えて発表する。発表が出揃うと、一番面白い解釈を披露したと思うプレイヤーを全員で指差し投票する。

多くのプレイヤーの票を得られたプレイヤーに1点が入り、ようやく1ターン終了である。回りくどいことこの上ない。

数年前にハンズで衝動買いしたものだが、お察しのとおり、このゲームが我が家で開封された機会はほぼ無い。ゼッタイギオンカンという字面だけで既に出オチ感があるので、取り敢えず来客に箱を見せて「なんでそんなの買っちゃったのw」という瞬間的な小笑いをとるだけの消費方法で今のところ満足してしまっている。しかし、もしかしたら、語感コレクターの方々なら付き合ってくださるかもしれない。深夜テンションでなら。2ターンぐらいなら。いや、面白いのか?本当に?まあやってみなければわかるまい。

 

 

閑話休題、本日はお題をお寄せいただいているので、そちらにお答えする回にしようと思う。お題はこちら。

 

「カジウラーになる前、どんな音楽聴いてたの?」

 

これはぜひ様々なフォロワーさんに私からも伺ってみたい質問だ。

語れるほどのものがあるかどうかわからないが、ひとまず私の回答を綴ってみる。

 

最初に断っておくが、梶浦さん以外のアーティストについては、好きと言ってもせいぜい十数曲(多くて20曲ぐらい)しか曲を知らないケースが殆どである。

大学院生の頃にカジウラーを自覚してから音楽の聴き方が大きく変化したが、それまでは、曲のデータを脳内にコピーしてひたすら反芻するような聴き方でしか音楽に接してこなかったので、一度に好きになれる曲の数が限られていたのである(このような聴き方になったことには多分に、10代の頃の家庭環境が影響している。機会があれば別記事で語りたい。)。

 

それでも好きと言うことが許されれば、梶浦さんの次に好きなのはたぶん中島みゆきさん。それからSuperflyである。

中島みゆきさんの曲は、人の愛し方や憎み方を考える上で長らく心の軸となってくれている。今でもよく歌うのは『銀の龍の背に乗って』『根雪』などだが、特に好きなのは『誕生』。この歌に情感を込めて歌えるような大人になることを最初に夢見たのは15歳の頃だった。「別れゆく命を数えながら、祈りながら嘆きながら、とうに愛を知っている」

30歳になった今は、いつかこの境地に辿り着くことが怖い。それでも、いつか別れゆく命達に精一杯の愛を贈れる自分でありたい、そのために愛を知ろうとし続けられる自分でありたいと思う気持ちには変わりがない。

有難いことに人間関係に概ね恵まれており、人生の多くの瞬間において私の心は友愛で満たされていると思う。けれども『狼になりたい』を聴きながら世の中への呪詛を吐いて紅茶を啜る夜もある(酒と言いたいところだが下戸である。)。愛と憎しみの両方を力強く支えてくれる中島みゆきさんだからこそずっと好きなのである。

 

Superflyは、背筋を伸ばして口角を上げたい時に好んで摂取する。『Wildflower』『Beautiful』『フレア』など。心に向日葵がすっくと生えて、人生を肯定する力が湧いてくるような、太陽の方角に自然と向かえるようになるような感覚が好きだ。「世界で一つの私に幸あれ!♪」

多重人格とは違うが、場の空気やTPOに応じて表出する人格の振り幅が大きいほうである自覚はあり、大きく分けて3つのチャンネルがあるように感じている。各々のチャンネルの柱に梶浦さん、中島みゆきさん、Superflyの音楽があり、三原色の境界はグラデーションを描いており、ラジオのようにツマミを回してその間のどこかにダイヤルを合わせるイメージである。言うまでもなくカジウラーとしての紫遠がメインチャンネルなのだが、比較的陽キャポジティブな紫遠が出てきた場合は脳内にSuperflyがフェードインしていることが多い。

 

 

「もっと知ったら際限なく好きになりそうな予感がする」で止まっているアーティストまで含めると枚挙に暇がない。

 

鬼束ちひろさん。心の中の鬱屈とした部分にくっきりスポットライトを当てつつ、意味深で少し幻想ホラー的な詞にぼかして表現している感じがたまらなく好きだ。もう少しで手が届きそうなのに永遠に開くことができない窓。「私はこの人の闇を一生かかっても知り尽くせない」という感覚がますます恋を掻き立てる。

『月光』『私とワルツを』めちゃ良いよね。毒親育ちとしては『茨の海』が特に性癖である。「いくつもの麻酔で幼い私の正気の在り処をわからなくさせる」は親を暗示しているものと解釈しているのだが、そうすると「祈り」を「放り投げ」る「貴方」というのは一体誰なのか?「在りったけの花で飾って、そうして崩れ落ちて、何度でも」の意味も長らく探し続けている(文芸部で考察したい……。)。

 

ポルノグラフィティ。おそらく最初にハマったJ-POPのアーティストだ。ただし中学1年の時に友達が貸してくれたMD(そんな時代もあったね)に入っていた曲達のみで情報がほぼ止まっているので、正味アルバム2枚ぶんぐらいしか曲を知らない。

好きな曲はアルバム『THUMPx』に集中しており、『シスター』『うたかた』『ネオメロドラマティック』など。総じてバラードに弱そうな予感はある。梶浦さん関連(Kalafina乃至YKLの歌姫のソロを含む)以外では唯一単独ライブに参戦したことがあるのがポルノだ。確か2008年の横浜スタジアムだったと思う。大雨で晴一さんのギターが5本ぐらい死んでた日。

 

コブクロ。『ここにしか咲かない花』を中1の合唱祭で歌ったのがきっかけでハマった。ハーモニーの心地良さに目覚めたきっかけはコブクロだったように思う。曲はアルバム2枚ぶん(以下略)。『Saturday』『桜』『君という名の翼』など。

Saturdayはね、本当に良いよ。それほど有名曲ではないらしくパッと通じる人に出会えていないのだが、ずっと大好きなの。微かに、ほんの微かにではあるが、FictionJunctionの『みちゆき』に通じる空気を感じている。優しさより深い場所で触れ合う痛みの静けさ。つめたい夜をひた歩きながら沈黙と温もりを分け合うような、こんな恋ができる人間になりたい。

 

Sound Horizon。高校2年で厨二病が遅れて来たのでその頃にハマった。アルバム『Elysion』『Roman』に好きな曲が集中しており、あとは『Moira』『Chronicle 2nd』『聖戦のイベリア』『Thanatos』『少年は剣を……』あたりが断片的にわかる程度なのでお手柔らかにお願いしたい。Romanはカジウラーになってから聴くと「えっかおりさんの声だ!」って素でびっくりできたりして楽しい。

ローランの友人達に誘われて初めてカラオケなるものに入った時のドキドキを思い出す(うぶだなあ……。)。マイクに声が全然乗らないしまあまあの音痴でもあったので(歌はあの頃よりは成長したよ本当に……。)、やむをえず台詞担当に回ったところ、じまんぐの声真似がそこそこ似ていて割とウケた。そんなこんなで今でも台詞は概ね諳んじられるが、あの似非じまんぐ声は今はもう出せない。残念だったネェ……

 

 

他にも本当に色々あるんだけど駄目だこれ、予想以上に語りきれないぞ。楽しいお題をありがとう。勝手にいつか第二弾を書かせていただくかもしれない。

今回は「カジウラーになる前」に聴いていた音楽とのことだったので除いたが、Aimerさんや石川智晶さんも最近好んで聴いている。歌姫ソロは主にKEIKOさんを追っているものの、最近織田かおりさんやWakanaさんもめっちゃええやんとなっている。これらについてもいつか大いに語りたいところ。

 

やや尻切れ感があるが、体力が死んでいるので本日はこの辺で。

またね。読んでくれてありがとう。にょんにょん

語感コレクションの話

しおんの音。紫遠ノート。

プロポーズに赤い薔薇を贈るぐらいのベタさ加減だが、他に妙案もないので、当分このタイトルで突っ走る。

どうぞ良しなに。

 

 

さて、私は友達に会う時、いつも我慢している質問がある。

「最近どんな言葉集めてる?」

そう世間話のノリで訊きたい。

「よっ、最近体調どうよ?」「お仕事どうよ?」「ねこちゃんどうよ?」ぐらいの気軽さで訊いてみたい。

でも訊かない。いや訊けない。

ひとえにそれは「語感コレクション」という概念がまだ広く浸透していないためである。

 

浸透するもなにも、「語感コレクション」自体が私の造語なので、知られていなくて当然なのだが、それは私の中ではかれこれ10年ぐらい続いているごく日常的な行為である。

だが、行為に名前をつけていないだけで、似たようなことをしている人は案外多いのではないかと期待してもいる。

その可能性に賭けて、まずは語感コレクションの定義についてここで語りたい。

 

それは文字どおり「語感」の蒐集である。

音の硬さ柔らかさ、重さ軽さ、質感、色。そうした何かが素敵だなと思った単語を集めて、心の標本棚に陳列する。

その単語を単に知っているというだけでは微妙に足りないのがミソである。ああ、いまちょっとふわふわした言葉がほしいな、とか、いまちょっと強そうな呪文を心に灯したいな、という時に、随意に取り出せて愛でることができてこそのコレクションである。

ここで、一般に、ジャンルを問わず何らかのコレクターの方には共感していただけるものと思うが、蒐集物に関する背景知識は必ずしも必要ではない。成り立ちとか、産地とか、どれぐらい珍しいものかとか、知っていれば楽しみ方の切り口が増えることは事実だが、知識がなくともただ並べたり触ってみたりして「綺麗だなあ」と惚れ惚れするだけでも立派なコレクターなのである。

同じことが語感コレクションにも言える。語感は言葉の「音」の側面と密接に結びつくものであり、それを味わうにあたって、言葉の「意味」の側面を具に知っている必要は必ずしも無い。

 

例えば、私の大好きなコレクションの一つに「スッタニパータ」というのがある。

スッタニパータとは、ブッダの初期の教えを収録した経典の一種である。内容は最古の仏教宗派である上座部仏教の教義と密接な関わりがある。

「犀の角のようにただ独り歩め」というフレーズはどこかで聞いたことがある方もいるかもしれない。

ただ、私はスッタニパータを一節たりとも読んだことがない。高校の時、倫理の授業で聞きかじって、「うわあこの言葉の語感めっちゃ好き」と思って、ひっそり心の棚に持ち帰っただけのことである。えも言われず素っ頓狂な感じ、明るく開き直っている感じ、そんな語感が、思春期の鬱屈とした心の中でころころと転がってぽんとはじけたのである。

以来私はスッタニパータに幾度となく救われてきた。落ち込んだ時、お風呂でぽつりと呟く、すったにぱーた。だが、繰り返すが、私は仏教徒ではなく、経典の内容についてもミリしらなのである(上記程度の解説文すらWikipediaで復習しながら修正したほどである。)。

それで良いのである。意味を離れて音を愛づ。それこそ語感コレクションの妙なのだと私は考えている。

 

定義を語ったところで、満を持して私の10年物のコレクションをいくつか披露しよう。

まず、先のブッダ関連で挙げれば、「クシャトリヤ」は最高に良い。バラモン教の階級制度において4階級中2位に位置する階級の名前であり、釈迦はこの身分を捨てて出家して修行の身となり、後にブッダとなる。いや、だから、そんなことはどうでもいいんだって。どうですかこの、クシャって握りつぶしてトリャってぶん投げる爽快感。いいでしょ。いけ好かない上司は心の中で容赦なくクシャトリヤしてやろう。

ブッダを離れて、お次は「ヘモシアニン」。これもかなり蒐集初期(?)からのコレクション。イカ等の軟体動物の血液の青さを作っている色素。人間たちの赤い血を作る色素は言わずと知れたヘモグロビン。だが、ヘモグロビンのそそられなさに比べて、ヘモシアニンのなんと魅力的なことか。気の抜けたコーラのような喉越し。決して美味しくはない、けれどもその脱力した味が肩の力をも絶妙に抜いてくれるのである。

太宰治の『人間失格』の中に、主人公の葉蔵が友と酒に酔い、世の中の名詞を「喜劇名詞」と「悲劇名詞」に分類する遊びに興ずる一場面がある。時が過ぎ、葉蔵が隠遁生活に堕ちきったある日、彼は下女に睡眠薬を買いに行かせる。ところが下女が間違って買ってきたのは「ヘノモチン」という名前の下剤であった。彼は下女に間違いを言って聞かせようとするが、その間の抜けた響きに思わず乾いた笑いを漏らしてしまい、どうやら「ヘノモチン」は喜劇名詞であるようだと独りごつ。

「ヘモシアニン」にも同じく、喜劇名詞めいた情けない道化感が漂う。ただし、ヘノモチンほどの重たさはない。葉蔵がヘノモチンに見出した嘆息は「嗚呼、人間、失格」ぐらいの根深さであろうが、現代人がお風呂で呟くヘモシアニンは、「あーあ、今日って、最悪」ぐらいの軽さで良いのである。そこがまた良い。頻繁に取り出したくなる所以である。

※さっきからなぜ当然のようにお風呂で変な単語を呟いているのかという点についてはあまり突っ込まないでほしい。一人の場所であるだけまだマシである。私にしては。

 

書きながらふと思ったが、擬音語乃至擬態語っぽさを隠している言葉が好きなのかもしれない。

擬音語擬態語そのものにはあまり食指が動かない。それらは元から音や状態を表現するために生み出された言葉であるため、そこに何らかの質感を見出すことに特段の意外性がないのだと思う。あくまで、名詞が本来の文脈を離れてぽつりとスポットライトの中に置かれた時に意図せず醸し出す物語や風合いがたまらないのである(※これは個人的な蒐集嗜好の問題にすぎない。)。

赤コーナー、擬音語っぽいコレクション代表、「タルトタタン」。林檎のキャラメリゼを用いたタルトの名前だ。そのままでも十分美味しそうだが、敢えて語感だけをぽんと取り出して味わってみると、軽快なタップダンスのステップを踏んでいる感がなんとも癖になる。心が浮き足立っている時に口にしたい言葉ナンバーワンタルトタタン。タタンタンタタン。タンタタタン。

青コーナー、擬態語っぽいコレクション代表、「メソポタミア」。これはメソ・ポタ・ミアと3等分してじっくり眺めてみてほしい。メソメソ、ポタポタ、ミアミア。どこからか聞こえてこないだろうか。めそめそ涙を流しながらか細く鳴くねこちゃんの声が。よしよし。かわいそうに。

これは持論だが、ねこを愛でる現代人の深層心理には、無視できない割合で「ねこになりたさ」が潜在しているように思う。したがって、人が「メソポタミア」と呟くその時、人はしばしば、泣いているねこちゃんに己を投影する。「大人だって時にはオギャりたい」という格言がしばらく前にバズったが、人間だって時にはメソポタミアりたいのである。己を抱きしめてよしよしかわいそうにと撫でてあげたい時に、ぜひ使ってみてほしい。メソポタミア

 

ねこと言えば、「ラングドシャ」も最高だ。ご存知、猫の舌という意味の菓子で、ラング・ド・シャと切るのが正解だが、語感コレクターは容赦なくラン・グドシャと切る。ランラランと暢気にスキップしていたら突然落とし穴にハマる感。持ち上げられといて落とされる感。

「あいつ、アタシに気があるふうだったくせに、彼女いるんだって。マジラングドシャ

100点。流行れ。ラングドシャ

 

ここからは辞書に載っている名詞を離れてみよう。

「ハッフルパフ」。ハリーポッターに出てくる寮名の一つ。これはもう温かいものをハフハフしながらパクついているようにしか聞こえない。コンビニの前で肉まんをハッフルパフする女子高生達。愛しいね。寒くなってきたから友達と鍋を囲んでワイワイハッフルパフしたいね。家片付けとこ。

それから、雷を呼べそうな呪文っぽい語感にも非常に弱い。最近フォロワーさんとお話していて偶然気に入ったのが、皮膚科のお薬の一種「デルモベート」。

これは最強。そこはかとないヴォルデモート感。絶対闇の魔術でしょ。杖から放たれる緑色の光が重く垂れ込める暗雲を貫いちゃうでしょ。

最後にお見せするのは、雷を呼べそうな語感の個人的代表選手、ロシア語でこんにちはという意味の「ズドラーストヴィチェ」。

絶対大きいやつが落ちてる。ズドラーストやで。ズドーンの最上級でしょ。雷界でいうところのメラゾーマ

実は、社会人1年目の夏、同期の女の子と研修帰りの新幹線で隣の席になった時、彼女が学生時代ロシア語選択だったと言うので、思わず口にしてしまったことがある。

「ズドラーストヴィチェってさ、雷落ちてる感じするよね」

一瞬彼女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。しまった、絶対おかしな奴だと思われた。無難で目立たぬ社会生活を送ろうとしていた計画が崩れ落ちる音を聞いた。ちなみにこの瞬間に私の脳裏を過ぎった語感コレクションは「ヘモシアニン」である。

しかし次の瞬間、彼女はふっと頬を綻ばせ、こう言ってくれた。

「ズドラーストがズドーン!感あるよね。で、ヴィチェで川氾濫してる。びちゃー!って感じ」

現人神かと思った。私は一瞬で気を許してしまった。職場では無愛想で人付き合いの悪いキャラを貫き通しているが、以来、彼女とだけはよく二人でご飯に行く。

 

 

どうだろうか。ほんの少しでも興味を持っていただけただろうか。

皆様も今日からやってみませんか、語感コレクション。

実は私もやっていたよという方がいれば是非ともお声がけいただきたい。きっと一瞬で懐くので。

 

語感コレクションの概念が晴れて普及した暁には、こんな会話もなされるようになるだろう。

「よっ、最近、どんな言葉集めてる?」

「『ニカラグア』の豪快な笑顔感がアツい」

「『モンモリロナイト』って、ねこちゃん同士がもちもちくっつきあって眠ってる感じしない?」

「わかりみふかし芋ー!」

 

いつになるかは知らない。

けれども、そんなおかしな未来をのんびり待っている。